015 私と『在宅無限大』
フラクタルの食べる担当、のぞみです。
昨年末、友人(僧侶)の飲食店で忘年会があったので行きました。乗り換えの駅に大きい本屋さんがあるので、寄り道してから行こうと思って予定の1時間半くらいに家を出たんですよね。今スケジュール見てみたら12月27日だった。
医療・看護系のコーナー行くじゃないですか。いつも通り急性期(ERとかICUとか)のコーナー見て、それから普段はあんまり見ないコーナーで目が留まったんですよね。
留まるわ、そりゃ。
無限大。
取り敢えず立ち読みしようと思って、まぁ前書き(はじめに)で泣きそうになるじゃないですか。あ、だめだ。と思って本閉じて、裏表紙に書いてある文句でまた泣きそうになって、レジに走りました。
今こうやって興味のある分野の本と出会えたのが本当に嬉しい。
運命かな、って思った。
一言で言うと、エモい。大体語彙力が死んでるんですけど、エモい、エモい、って思いながら読んでました。
エモい。
ひとが『死ぬ』場面、心電図モニター上HRが0になる瞬間も、棺の蓋を閉めることも、火葬場の釜に棺が入って行くところも全部恐らくひとより目の当たりにしている回数が多いんだけど。どれも“死”とは微妙に違うって思ってて、そんな中で、なんだか今までで一番しっくりくる死のカタチを提示された感覚。
患者さん(利用者さん)も家族も看護師もその状況を受容するって、みんなが一生懸命で、誠実で、良い。
一個人。
特に今、私がいる集中治療の場って、看護師が看護師でいることの意義をすごく感じるんですよね。大体にして患者さんみんな、日常生活上のことできないから療養上の世話って必須だし。直接的な処置(の介助)も薬剤の管理も人工呼吸器とかそういう機器の管理も、もう、これ看護師がやって大丈夫なの?って思うような、診療の補助もする。だって看護師だから。その一言に尽きるかなぁ。
でも訪問看護師さんひとりひとりの語りを見てると、看護師であることを前提として関わることも大切だと思ったし、一個人として、看護師であることを思わず忘れて(恐らく意識的にスイッチしているのではなく)、患者さん(利用者さん)と関わっているひとも多くいた。それも大切。そしてすごく人間らしい。
私看護学校のとき看護過程、ヴァージニア・ヘンダーソンだった(って言うかヘンダーソンしかやってない……)んだけど、よくヘンダーソン勉強していて耳に入ってくるキーワード“他者の皮膚の内側に入り込む”ってことを実践していると思った。
いいなぁ…そういうの。
そもそも病院=アウェイだから、患者さんも家族も身構えてる。語弊を恐れずに言うと、命握られてるようなもんだから、よっぽどのひとじゃない限りは良い患者・良い家族でいようとするのが集中治療室だと思う。スキルのあるひとががんばっても、なかなか皮膚の内側にはたどり着けない。私がやってもある程度表面をなぞるくらいが関の山かなって。まぁ、そもそもの役割が違いますけど。
なーんだ。やっぱり今の私が見聞きしたいこと、実践としてやりたいことって在宅の場にあるんだってまた確信を得てしまっただけだった。
さて、どうしよう。