007 私 meets 訪問看護
6年のうちに世相は変った。
集中治療室の御楯といでたつ我は。
数年前に、近いうちに超急性期看護が出来る人材はブランド化するらしいと聞いた。なぜならお国が在宅医療を推進しているから。在院日数を減らして早期に自宅退院を進めるという方針だから。
だから、そもそも病院に勤めるひと、急性期に携わるひとの人口は減る。だからブランド化する。
わかる、わかるよ。でもなんでそこで私は「じゃあ重症看護、がんばろうかな」と思ったのかはわからない。きっと集中治療室の看護師さんから言われたからそう思っただけで、これが訪問看護の看護師さんから、近いうちに訪問看護が出来る人材は……、って言われていたら「じゃあ訪問看護、やってみようかな」ってなったのだろうかとも思う。
話の内容の側面を変えた、同じ話なのにね。
ってことで唐突に訪問看護、在宅看護に興味を持ち始めた。
ただ単に素敵なひとたちと出会ってしまって視野が広がったのかもしれないけど、私を取り巻く世界の幅が、それこそ雪だるま式に、転がるように幅を広げてしまったことは確かで。ただ、あまりのスピード感に、置いてけぼり感があることはやや否めない。
超急性期看護の良いところは、数値がすぐに目に見えるところだと思う。
モニターは絶対ついてる。Aラインで血圧はリアルタイムでわかる。スワンガンツカテーテルが入っているひともいる。だからこの心拍数の増加は、血圧の低下は、PAPもCIも低下してるし血管内ボリューム不足だろうな。とか。CVPがすごい上昇してる、やばい、心タンポかも。とか。ってそういうのがすぐにわかる。そしてすぐにドクターコールして対応が出来る、スピードの速さが強みだと思う。
ただ最近すごく自分の中で腑に落ちない、モヤモヤすることもあって。
私が今、目の当たりにしている集中治療は、サンクティティ・オブ・ライフという考えが強すぎる。
呼吸をしている。心臓が動いている。それって本当に本当に尊いことだけどさ。
そのひとのその先に、なにがあるのかな。って思うことが多い。
逆に言うと私はその先の先、もうちょい飛び越えた先を知ってるからそう思うのかもしれない。
棺に納棺して、火葬場で灰になるところまで想像してる医療者はどこまでいるんだろう。
クオリティ・オブ・ライフを投げ打ってまで延髄の呼吸中枢と心臓の自動能に依存する生命の価値が、私にはわからない。
さて在宅。ところ変われば考え方も変わるのでしょう。
正直関わることがないから全くわからないけど、きっと疾病を抱えたまま生活をしているそのひと自身の環境を全部引っくるめて丸ごと看ているんだろうな、ってことは、最近会った素敵なひとたちと話して感じた。
あぁ、なんか、すごく、“看護”っぽいなぁ。
概念としての看護に対する考え方はひとそれぞれだと思いつつ、とにかくすごく、そう感じた。