恋と看護
本編に書くのはなんだか少し申し訳ない気がして、なので、でも、少し書きたいので書いてみることにします。
新型コロナウイルスの流行で、ひととの関係性の在りかたは変わった。ソーシャルディスタンスはとりつつも、わたしのような独身独居の人間が会っているのはソーシャルな間柄のひとたちだけで、プライベートな・パーソナルな・ドメスティックな間柄のひととは、大手を振って会えなくなった。特に医療従事者は、責任感も強い(と、思う)し、ディスタンスを確保して密を避けつつ、大々的に飲み会ウェーイ!をすることなく(ひょっとしたらやってるかもしれない。でも、表には出てこない)、粛々とお仕事をしている。ように見える。少なくともわたしがSNSを見ている限りでは。
やり取りはしている。SNSを通して、そのひとの呟きを見るたびに、当然ながら、生きてるんだ。って感じる。ZOOMでの飲み会も増えた。顔も見える。声も聞こえる。確かにそこにいる、そのひとを感じるけど、でも燻るなにかを感じずにはいられなかったと思う。わたしだけじゃなくて、みんな。
久しぶりにお友だちに会った。その前に誰か、職場のひとや利用者さん、身内以外のひとと会ったのはいつだったか。スケジュールを開いてみても、正直、よくわからなかった。書いていないだけかもしれない。意外と外に出歩いていた記憶があるけど、ひとには会ってなかったのかもしれない。
恋人というひとは、特別な相手だと思う。
なにせ(わたしの場合は、ヘテロセクシャルの女性なので)相手の身体の一部を身体の中に受け入れることもある。0.01mm隔てた身体と、心の距離はどちらが近いのか。恋人とディスタンスを保つことは、身体的にも精神的にも社会的にも霊的にも、なかなか難しいことなのではないかと考える。やっぱりこの、with コロナの新しい生活様式が、ただただ他人だけど情緒的な結び付きが深くて、でも家族ではない、そんな恋人同士に対してひどく閉塞的で息苦しく感じざるを得ない。
今日は神崎メリさんのメス力がキーワードだった。
メス力とは『男心に寄り添い、しかし媚びずに、女性として凛として生きる力』らしい。
わたしは、男性に自分を追いかけてもらうためのテクニック、と、浅いかもしれないがそう解釈するに至った。恋は常に全力100%でフォールインというか、フォールダウンなわたしからしたら『出来ん……』または『好きな殿方でなければワンチャン出来る……』と感じた。ただ、おクズ様(……なんで敬称をつけるんだろう?)=自分のことを尊重しない男性、にはとっとと見切りをつける、という考えには大賛成したいと思った。結局それに囚われて泥沼から抜け出せないまま10数年経過したわたしがいうのだから間違いない。ちなみにわたしは生き物としての優れたメス力は、テクニック云々よりも妊孕性だと思う。
ときに、看護をする上で、自分の看護観(看護を提供するときに大切にしたい考え)や、死生観(死ぬこと、生きることを考える上で大切にしたいこと)を客観的に知ること、自分を俯瞰して、自分の傾向をよく知った上で、対象に接すること。そんなことを口酸っぱく言われてきたと思う。
わたしの恋愛観と死生観が深く結び付きすぎているせいなのか、自分の傾向を知る上で恋について切っても切り離せない、いくら距離をとっても逃れられない事象になってしまっていることを感じた。
態度や姿勢、向き合いかた、尊敬や敬意の伝えかた。そういうものの礎を築いたのは、わたしの場合は恋愛だった。恋が、全てだった。
ソーシャルディスタンスの時代に、ぬくもりが、恋しい。