ナガサキの日に寄せて
もうすぐ100歳に近い、そんなご高齢の利用者さんの家に訪問に行きます。ふたりの女性は、ほぼ寝たきり状態だけど口はとてもとても達者。
ひとりは行くたびに絶対に戦争のときのはなしを、『今のひとは幸せね。昔は戦争で大変だったのよ』と、してくれて、ひとりは絶対に『そんな昔のこともう覚えてないわ』と言って、しません。
同じ時代を生きて、そんなに遠くない都市で生まれて、暮らしてきたふたりの中でも、それぞれ異なった事情があって、それぞれ異なった暮らし、思い出、もちろん別れもあったのじゃないかと想像します。
もう10何年前に亡くなってるわたしの母方の祖母(普段はばーちゃんって呼んでるんだけど)(不良DM患者のためお風呂場で不審死)が、沖縄生まれ結婚して長崎へという、なんか、今になってよく考えるとハチャメチャにヤバそうな土地で暮らしていたようです。
昔、小学校の授業で『祖父祖母に戦争のはなしを聞いてみよう』という宿題が出されたことがあります。
ばーちゃんもわりと後者タイプで、全然話してくれなかった記憶があります。そのときは今よりも当然ながら思慮も配慮もなかったから『ばーちゃん役に立たないなー』って思った(ひょっとしたら口に出してた可能性も)ような。
語りたくない話があるなんてあの当時気付きもしなかった。語ることでカタルシスを得られる場合もあれば、語ることでトラウマを強化する可能性もあるんだもんね。
長崎に親戚がいたので、中学生くらいまでは1~2年に1回程度、行っていた。
(※まだ飛行機は乗れていた)
誰の家なのかは正直覚えちゃいないが、じーちゃんが死んでからも毎年行っていたのだからきっと祖母方の誰かの家なんだろうな。牛がいた。可愛かったけどどうやら食肉の牛だったらしい。
親戚の家は長崎市からは遠かったけど、誰かの意向で平和公園には何回か訪れたことがある。面白くもないのになんで連れていくんだろう、ってそのときは思ってた。一本鳥居を見たとき、感じたものはあったけど。ハウステンボスや、キリスト教建築はすごくきれいでたのしかった。お土産で買ったぽっぴんは、秒で壊れたけど。
結局意味がわかったのは、修学旅行で沖縄に行って、戦争体験の語り部のオジーオバーのはなしを聞いたときだったような気がする。ばーちゃんごめん。
わたしが戦争と平和について想う日は、ヒロシマの日でもなく、終戦記念日でもなく、今日だ。
件の宿題の作文には、みんな同じように『戦争はいけない』『世界の平和を祈る』なんて感じのことを書いていたと思う。
実感をもって、思う。