37.PLAN75
ロックをやっている若者が『オレはシド・ヴィシャスよりももっと早く散って伝説になる』っていう場面を見たことがある。
文学が好きな少女の『私は太宰のようなひとを見付けて一緒に死ぬの』っていう言葉を耳にしたことがある。
わたしも昔はそこそこの死にたがりで、きっと早く死ぬんだろうなと思っていた。いたはずなのに、気が付いたらたまに心身の調子を崩しつつも元気に中年に片足を突っ込みつつある。
『PLAN75』を見てきた。
75歳以上の高齢者が自分の意思で安楽死を選ぶことが出来る『PLAN75』という法律が可決された日本。
坂を少しのぼった、エレベーターのない団地に住んでいる主人公。
夫とは死別しているらしい。他に家族はいない。一緒にホテルの仕事をしていた仲間同士で、公民館か地域のコミュニティセンターかでレーザーディスクのカラオケに興じる、慎ましい日々。同僚が仕事中に倒れて、高齢を理由にホテルの仕事をクビになる。これから住むところにも困るかもしれない。仕事は見付からない。仲間とも離れ、ひとりになっていく。そんなとき、PLAN75は否が応でも目に入る。
役所の青年はPLAN75の窓口を担当している。
PLAN75の説明は、生活困窮者への炊き出し会場でも行われる。父親の葬式にも顔を出さず音信不通だったおじが、突然PLAN75の申し込み書を持ってやってくる。
フィリピンから娘の手術費を稼ぐために日本へきて、介護施設で働く女性。敬虔なクリスチャンの彼女は、教会でより給料が良いPLAN75の関連施設での仕事を紹介される。その仕事とは、安楽死が終了したご遺体の荷物をまとめて、遺品として整理するというものだった。
PLAN75のコールセンターで働く若い女性は、高齢者が死を迎えるその日まで、そのひとのライフヒストリーを聞いていく。恐怖を感じることなく、安心して逝けるように“誘導”をすることが業務だと言われていた。しかし高齢者のひととなり、人生を知っていくうちに心が揺らぐ。PLAN75というシステムに疑問を抱きながらも、いつものように『PLAN75は、万が一お気持ちが変わられたら、いつでも中止出来ます』と説明をする。涙が混じりそうになるのを堪えながら。
最近の映画って結構説明過多で、今はこんな展開が起きていて、このひとは今こんな気持ち。この映画はハッピーエンド(バッドエンド/メリーバッドエンド)ですよってわかりやすくないと売れないという話を聞いて、まぁそもそも題材が題材だし、売れないタイプの映画なんだろうなとは思ってた。想像力を駆使したり、視角聴覚をフルに使って没入する映画は、ちょっと疲れちゃうし苦手。
一番はじめのシーンから怖くて泣き、陰影や息遣いに胸が苦しくなり、言葉を越えた手と目の演技で嗚咽する。パルスオキシメーターの音も、あまりにも辛い。結局ひとりで大号泣していた。ひとりで行って良かった。
ラストシーンは勝手に物事が進んでいくのではなく、それぞれの『選択』の結果だったということはちゃんと心に留めておきたいなと思った。
今の政策は高齢者の票のために成り立っているといっても過言ではないので、きっとPLAN75なんて法律は今すぐこの日本では出来ないと思う。口減らしのために殺されたりしてきたのは、高齢者よりも自分の意思のない嬰児というのが常だった。
でも今、未来の生産力を支える若者こそが尊くて、その若者の税金で暮らしている高齢者はどうだ?って風は確かに吹いている。
(社会保険料が上がるとウッ……ってなるし、高齢者のプリウスが通学途中の横断歩道の列に突っ込むとえもいわれぬ感情が湧くことは、確かにある)
わたしが75歳になるまでに、こんな法律が可決されてもおかしくはなさそう。わたしはどうしたい?どうやって生きて、どうやって死ぬか。
色々と考えさせられる映画だった。